輪島は、古くから『廻船式目』に書かれている様に、日本の十大港湾都市であった。
その繁栄は、大きな商人がいたわけでもなく、地道に塗物を商いする小規模の工房塗師達の
努力と勇気がもたらしたものであったと推測する。
明治38年の町の地図が有り、そこには各家の職業が書かれた市勢が読めるめずらしい地図には
漆器関係する家が本当に多く占められているのだ。我が工房のように小さいながら、
江戸時代に、江差や小樽との交流が古書に記されている事が興味深い。
他の漆器産地形成の歴史を読むと、やはりそれぞれ基盤によって違いが見える。
輪島は、直販での営業が主であった為に、江戸から明治の時代の変化や
財閥解体などによる影響をまともに受けなかった事が幸いし、
明治大正頃から戦争の混乱期になるまで、漆の仕事はそれなりにあった。
それは、輪島の産地の加飾の技術である蒔絵や沈金の技術がその時代に
かなり高められていた事が記録されている事からも産地として単価の高い
高級漆器としての仕事の受注があった事が判る。
一般漆器から高級漆器の受注が出来る様になったのは、筆者は独自の推測を
もっているが、その件に関しは別の所で書いているので、ここでは略します。
万年筆を敢えて、輪島塗の産地から創り出す。という
本題に入るまで、少し長くなりますが、何とぞお付き合いください。
(続く)