輪島塗の歴史は古いが、江戸時代から北前船の廻船交路を頼る
全国に向かっての塗師屋(塗工房)による営業活動が盛んに行われた。
納品時には、顧客からや縁者を頼り、次の仕事を受注し帰郷するのである。
そのためには、納品に満足してもらうために、また他産地の競合品にも
十分対抗できる様に、仕上げの技を高めていたそうである。
色々な文献や知識者による、輪島塗の歴史が著せられているが、当工房の
先祖からの言い伝えや手書きの古書などから、推測される事から、
全国の漆器産地にない特徴が伺える。
古くから漆器の技術が育成され産地とした基盤ができるには、条件が
整わねばならない。多くは大名、京では寺社公家文化が担った。
地方の工芸産地の形成においては、その領土を治める大名や有力な
領主が関与していた。
税の対象として米農作物もあったが、その土地の物産による
収益も大切で、それらの振興により 領主だけではなくその土地に
住む民も豊かになった。
だが輪島塗の盛んとなった頃は、加賀前田藩はどうあっただろうか。
実は、能登の塩づくりが重要な能登からの収入源であったようだ。
輪島は江戸半ば頃まで素麺が輪島塗以上の産業だった事が昔から聞き
伝えられている。
では何によって輪島が漆器産地として盛んとなったかであるが、主説は 門前町に
全国に多くの宗徒を持つ曹洞宗本山「総持寺」(現在本山は横浜鶴見に)があった
からとされる人が多いが、輪島の宗派は浄土真宗門徒が多く同宗派の寺も多いのである。
(続く)
輪島塗の産地から漆万年筆を発売